表情や身体表現から感情を探る、あるいは表情や身体表現から感情を学ぶこと

 「怒り」という感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって学習される。子どもの内面に「怒り」の感情があって、それが表出して「怒り」の表情や身体表現になるのではない。他人の「怒り」の表情や身体表現を模倣し、その表現に伴う情動が内面化され、「怒り」の感情が生まれるのである。これは子どもの感情が豊かになる過程を仔細に観察していればわかることである。他人の表情や身体表現の模倣に熟達するにつれて、子供の感情は深まり、多様化していく。子供は「怒り」を大人の表情や身体表現から学ぶのである。「怒り」や「悲しみ」は模倣しやすいのに対し、「安堵」や「憂い」となると相当に難しく、成熟と熟練が上手く組み合わせないと内面化はできないだろう。

 したがって、感情は他人の表情や身体表現を模倣することによって生まれるわけであるから、表情や身体表現が伴わない、いわば「純粋」感情などというものは存在しない。言葉を生まれつき持っている人はおらず、学習によって言葉を習得するのであるから、生得言語は否定される。感情もそれと同じで、生得感情はなく、獲得的なのである。

 あなたが「人類最後の一人」になったとしてみよう。あなたは自分が「人類最後の一人」になり、大いに悲しむ。たぶん、その悲しみを涙を出したり、泣き叫んだりして表現するはずである。だが、どうしてあなたはそんなときにも「誰が見ても、それとわかる悲しみの定型」を忠実になぞるのか?誰もいないのだから、そんなことをする必要は全くないのである。純然たる悲しみの感情だけがあるだけでよく、それを身体化する必要はないのである(見ている人は誰もいないのだから)。だが、誰も見ていない場所においてでさえ、「ああ、この人は悲しんでいるな」と他人にわかるような表情や感情表現を外に出すのである。いや、そうせざるを得ない。というのも、表情や身体表現抜きで、輪郭のはっきりした感情をもち、それを維持することが私たちにはできないからなのである。言葉の場合も全く同じで、誰もいないにもかかわらず、誰かに語るようにあなたは語り、心情を吐露するのである。

 さて、上述のような感情模倣説を主張されると、大抵の人は反発するのではないか。「私の悲しみの感情は本物で、学習によって後天的に植えつけられたものなどではない。楽しみも怒りも然りで、そのような多様な感情をもつことが私の生活をユニークなものにしているのだ」といった気持ちをもつはずである。また、言葉は頼れなくても、感情は嘘をつかないということに同感する人は多いはずである。感情は生得的だが、言葉は獲得的だという意見は未だに常識として通用しているようである。感情も言葉もいずれも獲得的、と声高に言われると反発したくなるものである。

 この感情模倣説を今しばらく続けてみよう。感情とは(観客がいることで有意味になる)社会的な記号なのである。そして、表情や感情表現は、それを見ている他者のミラーニューロンを賦活させ、内面化されて、他者のうちに同質の感情を作り出す。自分の内面には「そんな感情」がなくても、それを真似て、演じているうちに「そんな感情」が自分のうちにも、そして自分を見ている他者のうちにも生まれてくるのである。

 このような見方を最近の政治家に関する議論に応用してみよう。他人の心を直接に操作したい人、つまり、政治家は理屈だけではなく、怒り、悲しみ、苦悩の演技に熟達するようになる。政治家は役者と演出家の一人二役といったところである。感情表現に熟達した政治家が「過剰に感情的」に見えるのは、当たり前のことなのである。以前の東京や大阪の知事は怒りを剥き出しにすることでメディアの注目を集め続けたが、これは計算ずくのパフォーマンス。「怒り、叫ぶ人」は衆人の耳目を最優先に集めることができる。「怒る政治家」たちは、それを知り、巧みに利用しているのである。

 政治家だけではなく、メディアに登場する知識人たちも、感情を抑制する努力を怠るようになってきた。たぶん、その方が自分たちの言い分を通す上で効果的だということを学んだからなのだろう。「子どもらしく/大人らしく」、「男らしく/女らしく」ふるまわなければならないという社会的規範がどれほど人の心を抑圧し、傷つけているかについて、私たちは飽きるほど聞かされてきた。例えば、「「らしく」という抑圧的行動規範こそが父権制を支えているのだ。「らしさ」の呪縛から人々は解き放たれねばならない。人は「自分らしく」ありさえすればよい。それ以外のすべての社会的行動規範は廃絶されるべきである。」というような…この二十年ほどそんな話ばかりだった。だが、そう主張した人々は「感情の成熟」ということについてどこまで真剣に考えていたのだろうか。

 私たちは子どものときは「子どもらしさ」を学習し、それから順次「男らしさ/女らしさ」や「生徒らしさ」や「年長者らしさ」や「老人らしさ」を学習してゆく。さらには育児や老親の介護を通じて、「子どもに対する親らしさ」や「(親に対する)子どもらしさ」といった変化技を学習していく。そのようにして習得されたさまざまな「らしさ」が私たちの感情を細かく分節し、身体表現や思考を多様化し、深めてゆく。感情の成熟とはそのようなことである。言葉の巧みな使用が文学を生み出したように、感情の巧みな表現は演劇を生み出してきた。

 「感情の学習」を止めてしまい、「自分らしさ」の表出を優先させてゆけば、幼児期に最初に学習した「怒り、悲しみ」といった「原始的感情」だけを選択的に発達させた人間ができ上がる。そのような人間であることは、今のところ、まわりの人々の関心と配慮を一身に集めるという「利得」をもたらしている。なぜなら、「怒っている人間、悲しんでいる人間の中で最優先にケアすべきなのは子供たちである」という人類学的な刷り込みが生きているからである。けれども、現在の私たちの社会では、「過度に感情的であることの利得」にあまりに多くの人々が嗜癖し始めている。それは私たちの社会が、「大人のいない社会」になりつつあるということを意味している。

 さて、今度は表情や感情表現の生得説に転じてみよう。チャールズ・ダーウィンは著書『人及び動物の表情について』(1872)を書く前に、世界各地の先住民族へ手紙を送り、それぞれの表情についてアンケートをとった。このアンケートは現在から見れば不十分なものでも、その結果に基づいてダーウィンは「表情は人類に共通なもの」と結論づけた。ダーウィンの『人及び動物の表情について』(浜中浜太郎訳、岩波文庫、1931)はThe Expression of the Emotions in Man and Animalsの訳書で、古色蒼然たる旧字体で、趣を簡易る一冊。本書の構成は三部構成。まず感情の表出についての三つの原則を説明し、第二部で動物について、第三部で人間について論じている。

三原則

1.連合的習慣の原理「The principle of serviceable associated habits」

2.反対の原理「The principle of antithesis」

3.意思からも、習慣からも独立した神経系の構造による動作の原理「The principle of actions due to the constitution of the nervous system, independently from the first of the will, and independently to a certain extent of habit」

第1の原理についてはイヌの特徴や、人において身振りが遺伝することなどが取り上げられている。第2の原理についてはイヌの攻撃的なときの姿勢と飼い主にじゃれつくときの姿勢が正反対なことが図入りで示されている。第3の原理については筋肉がふるえることや強い痛みの時に汗が出ることなどが説明されている。

 続いて、第二部は動物の表情についてで、動物に内的な感情があることを前提にした議論である。まず、音声についての話。鳥などのつがいが相手を呼ぶ音声や子が母親を呼ぶ音声、そして敵を怖がらせるための音声を挙げ、それぞれの状況と音声が連合の原理で説明できるとしている。そして、人の声も感情と深く結びついていると説明している。また、音楽は求愛行動と深く連合しているのではないかと推測している。

 音を出すようになる進化の説明としてガラガラヘビの警戒音の仕組みを細かく説明しているところはいかにもダーウィンらしい細やかな考察。続いて、動物の姿勢に関して、敵への対応として姿勢を大きく見せる効果のある姿勢をとること、またかみつき攻撃を行う相手と闘争するときには耳を咬まれないように耳を寝かせると説明している。

 第三部は人について。個別の感情とその表出について考察が続く。まず最初の感情は苦悩。ダーウィンの最初の疑問はそもそもなぜ人は悲しいと涙を出すのかということ。ダーウィンは、悲しいと大声を出す、それは血流を変え、充血等の作用から眼を保護するために目を閉じようとする、そしてその眼の筋肉の作用と連合して涙が出るように習慣づけられ、最終的には悲しみと涙の間に連合が生じたのだと説く。続いて、悲しいときに眉を上げることと口角を引くことについて。ダーウィンはこれは泣くのをやめようとしてがんばることによる連合だと説明している。悲しみを表す眉の上げ方は内側のみあがる形で非常に特徴的で、ダーウィンはこれも細かく観察している。

 次は喜びと笑い。口を開き口角を後ろに引き、上唇はあがる、眉が下がる、目が輝く、笑いとして声を出すことを観察。声を上げて笑うこと、口の形については説明できないとダーウィンは認めている。不平があるときに口をとがらせることについてはチンパンジーやオランウータンにも見られると指摘している。

 激怒の表情。血流が速くなり、呼吸も荒くなるのは筋肉運動の準備との連合、歯をむき出すのは動物祖先からの受け継ぎと説明している。嫌悪については味覚・嗅覚との連合が強いことを指摘。まずい食べ物に対しての感情がその他のものに拡張したのだとして、口の周りの動きにその吐こうとするときの動きの特徴がよく出ているとする。またこれが軽蔑と連合していると指摘している。

 驚愕。ダーウィンはより早くものを見ようとして眉があがり、呼吸を効率的にしようと口を開くと説明している。これと似た恐怖については、眉と口にくわえ、暗がりを見ようとして目が開かれるのだと説明している。

 赤面。これは意図的になるのではなく、本人は隠そうとしているのに信号が出されることから、ダーウィンは詳しく考察。そして、これは自分の外見がどう人に見られているかということからくる感情を表す信号だとする。もともとは容姿への注目であり、性淘汰的な外観が関連しているのだろうと推測している。そして、相手から注目されると赤面するのだと現象を説明する。心があるところに集中するとそこが収縮し,皮膚が動脈血で満たされて赤くなる。そして、それが連合して赤面するようになったというのがダーウィンの説明。性淘汰にまで言及しているのが、最終的な説明に到達していない。

 最後は結論。まず、表情が学習や文化によるものではなく、基本的に遺伝するものであることが強調される。そしてそれは連合等の3原理に基づくと説明される。その証拠として、意図的にコントロールできないものがあること、盲人でも同じような表情を浮かべることをあげている。実際にこのような表情が普遍的だと広く認められるようになるのは1970年代以降なのだが、ダーウィンは遙かに時代を先んじていた。今から考えるとダーウィンの提示したこの二点は非常に強力な議論である。また、ダーウィンは仕草や表情には学習によるものがあることも認めている.中には模倣によるものもあるだろうとし,現代的なミーム概念に近い考えまで示している。

 続いて、表情を見分ける能力が先験的かどうかに関しては、これは別の議論だとして断定的な結論を留保している。ただし、意識的な分析をしなくとも相手の感情が理解できること、発達心理的な分析からほぼ生得的と考えてよいことを述べている。

表情や感情の表出についての二つの主張を読んでみて、それが学習によるのか、生得的なのか、読者それぞれ考えてみてほしい。