もう何も。もう誰も。  前

「田口さん、また、来てもいい?」

「もちろんだよ。いつでも、話聞くからね」

さようなら、と背を向けて、ドアを閉める。

「嘘吐き」

心の中で呟いた。

高校二年生の終わり頃、田口さんは私の学校にやってきた。

スクールカウンセラーと名のついた、進路相談員だった。

どこかの団体の人だと担任が紹介してくれた。

「田口ユキです。女の人みたいな名前だけど、一応男です」

ひょろひょろした体型、ひょろひょろ高い身長、ひょろひょろした笑顔。

田口さんは雪みたいに真っ白な肌で、何もかも見透かすような綺麗な目をした人だった。

年齢も三十路を迎えたばかりで、セーラー服の女子高生達はたちまち優男の田口さんに夢中になった。

別に進路に悩んでいない女子まで、わざわざ田口さんに相談しに行くほど。

田口さんは独身だし、彼女もいないし、私達みたいな女子高生の好物と言われたらドンピシャだ。

本来だったら、毎日何時にこの人、というように対象の学年の中で一人一人割り振りをされて、相談しているその一時間は授業を受けたことになる。けれど、それだけじゃ飽き足らなかったり、対象の学年じゃないけれど相談をしたい人は個別に放課後相談しに行く。

ドアにはいつも【ただいま相談中】の札が掲げられていた。

私が初めて田口さんと話したのは割り振りをされたその日だった。

私は人気者が嫌いだったし、特に田口さんのように誰にでもひょろひょろ笑顔を向ける男が一番嫌いだったから、何も期待していなかった。

だから、相談することなんて何もない、と話した。

「西村さんはさ、何か好きなものある?」

「すぐには、なんとも…」

本当は球体関節人形が好きだと言いたかった。

だけど、そんなこと話すのは相手が違うと思っていた。

「僕さ、球体関節人形が好きで何体か作ったことがあるんだよ。知ってる?球体関節人形

思わず声を上げていた。知っている、と私も作ったことがある、と。

「そうなんだ。偶然だね!こういうの作ったことある人なんてそうそういないから驚いた。趣味、合うかもね、僕達」

僕達、と一括りにされてどうして私、少し嬉しかったんだろう。

仲間意識?初めてだったから。球体関節人形が好きなんていう人。

しかも、男の人で。

「どんなの作ったの?僕の子達はね、こんな感じだよ」

田口さんは携帯電話を私に見せてくる。

画面いっぱいに美しい球体関節人形が並んでいた。

人形達の悲しい目が私は大好きだった。魂を吸い取られそうだといつも思う。

お礼に私が作った人形も見せた。

「ああ、綺麗だ。こんな風になりたい?西村さんは。僕はいつも人形を作る時はこんな子に出会いたいとか、生まれ変わるならこんな風になりたいって思いながら作ってる。僕ね、男って生き物が嫌いなんだ。あ、女好きって意味じゃないよ」

ひょろひょろにこにこしている田口さんがなぜかとても近い存在に感じられた。

だから、思わず私も言っていた。

「こんな風になりたいとも思うし、私は人形になりたいんです」

「人形に?」

「そう。人形になれば、私みたいな人がずっと愛しているし、もし、飽きられたって人形なら知ることもないでしょう?捨てられたら、その人を呪えば済む話だもの」

「物騒なことを言うもんじゃないよ」

笑う田口さんの顔がわずかに近づいていた。

身を引かなかったのは自意識過剰だと思われたくなかったから。

田口さんはやましい気持ちなんてないはずだ。

散々私達は人形の話をして、あっという間に一時間が過ぎていた。

こんなに風に時間を忘れて大人と話すのは初めてだと感じる。

「じゃあ」

「あ、西村さん」

立ち上がった私の手首を田口さんがぎゅっと掴む。

「え?」

「この話は僕と西村さんだけの秘密ね」

ぐっと掴む力が強くなった気がした。

私は頷き、無意識に言っていた。

「また、来てもいいですか?」

「もちろん。話したいって思う時は、ここにメールして」

渡されたアドレスは会社のものらしかった。

それでも、なんとなく嬉しくなったのは、手首の熱が体中に廻ったせいだろうか。

さようなら、と背を向けてドアを閉める。

「なんだろう」

心の中で呟いた。この、息苦しさは、なんだろう。